揚水施設「丸山・三嶋風車」
三嶋風車 白子の三嶋地先(主として白子字泉・川内地区)は往昔より河原を開田したような地質のところが多く、砂利田の為、水もちの悪い「ザル田」で、従来より用水の確保には非常に苦労し、低地で而も河川に隣接しているので、比較的水位の高いのを利用して、田の一角に井戸を掘って「はねつるべ」等の人力揚水を行ない、水田として耕作していた。
しかし、汲み上げても間もなく浸透して井戸に戻ってしまうので、この耕地の農家は常に水管理には難儀をしていた。
昭和6年頃千歳村白子(現千倉町白子)の大工職石井貫次は、ザル田で困っていた地元有志と共に夷隅郡大原町方面において行われていた風車揚水を視察し、地元民の期待を受けて、長い時日と体験を生かし揚水風車を試作したのが、三嶋風車の初めといわれている。
この地域で実際に風車が稼働し始めたのは昭和10年頃からで、同18年頃の最盛期には100基位が林立して、音を響かせ一斉にくるくると回る様子は、希に見る農村ののどかな光景であり、車窓の風物詩としても人々の目を楽しませてくれたものである。
この風車揚水も昭和35年頃には大部分が石油発動機による揚水ポンプに移行し、所々に揚水機具を保管するブリキ板の箱が見受けられるようになり、風車は数をひそめ僅かに数基が往時の名残を惜しむかのように残っていたが、昭和40年頃には三嶋の田園から姿を消した。
この三嶋地区の耕地20ヘクタールも、昭和57年から土地改良総合整備事業によってほ場整備が施行されており、その折りに昔を偲ばせる井戸の跡が85個所確認されている。
この事業により完成後は安房中央ダム等の用水を確保し、客土を行ない30アール区画の整田に生まれ変わる日も近い。

風車の構造
林立する風車 この風車の材料は主に杉材で、シャフト、軸受、翼板取付金具及びポンプである。
先ず井戸をはさんで両側に3メートル位の柱を2本建て、コンクリートで基部を固定し、柱の間には桟を打って梯子にして、更に支柱を斜めに立てかけて柱を補強した。その上に翼板と尾翼を接続したシャフトを軸受で止めてポンプに接続した。
翼板の腕木は3メートル位の角材の両端より1メートル位のところまでを、約17度の勾配に削ったものを3本交錯させて、勾配の部分に翼板をクサビで取りつけた。
翼板は杉板を用い、60センチ×90センチ・50センチ×50センチ・35センチ×45センチ等の大きさのものを作り、風の強弱等の条件によって交換するようにした。
なお特に風の強いときは翼板の数を減らした。
尾翼は台型の板を翼板の反対側にクランクシャフトを通して取り付け、風向に追従するようにし、更に綱をつけておいて修理や翼板の交換などの際に固定させるために使った。
また台風の時等に翼板の腕木や尾翼を取り外してシャフトを固定した。
翼板と尾翼の両端のバランスの中心部に軸受があり、この軸受はある程度移動できるようになっており、クランク軸からシャフトによってポンプに連結し、風車の回転がピストン運動に変わり水を汲み上げた。
ポンプは手押しポンプを改造したものでその行程は10センチメートル位で、毎分30回転程度が適当とされていた。
しかし井戸の貯水量や揚水量の多少により風車の回転数との相対関係を調整したものである。
翼板や尾翼などの取付はクサビやナット締めで、主軸に腕木を止めるナットにはハンドルが付けてあり、なるべく簡単に分解できるようになっていた。
また運転中の注油は梯子を登って行ない、ポンプも年1,2度パッキングの革を取り替える程度であった。
--- 平成元年3月30日発行 「丸山町史」による ---

rosemary

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